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新聞記者からの逃亡④

会社を辞めるまでに最も苦しかったこと、それは周囲への説明だった。経済的なデメリットを指摘されると、苦しかった。それでも最後まで退職の意思を貫けたのは、たとえ経済的に苦しくなっても、大自然に囲まれて生き、地域を盛り上げる活動に対するワクワクした気持ちを抑えることができなかったから。鬱屈した気持ちを抱えて仕事を続けるより、夫婦で力を合わせて、必死になって生きたいと思ったから。

 「3年後はどうするの?」「子どもが生まれたらやっていけるの?」「生まれてくる子どもがかわいそう」「病気になったらどうするの?」

 周囲は丸裸になる私たちを心底心配してくれた。それでも、やってみなきゃ分からないと思った。やってダメだったら、どんな仕事でもやってやると思った。会社辞めても、都会で暮らさなくても、豊かな生活を送れるんやと全身で証明したかった。

 会社を辞めることに対しても上司や同僚は本当に残念がってくれた。でもこの先会社にずっと居続けて、部署や周囲が変わったとしても、「こういう生き方がしたいわけじゃない」という気持ちは無くならないだろうと思った。新聞記者は立派なサラリーマンなのだ。会社や自分たちが作ってるモノへの愛情や誇りが薄れると、必死に働く気力が薄れていく。そんな人が多すぎた。そして私も、そんな一人になろうとしていた。

 そんな状況から私は逃げた。「書きたい」「書かなきゃいけない」と思える場所へ。自分の全てをかけたいと思える場所へ。いい暮らしのために嫌々働きたくなんかない。貧しくても、笑って泥だらけになって必死で働きたい。ありがたかったのは、自分の父と母と妹と弟が全力で応援してくれたこと。「さなえらしいな」ってたたえてくれたこと。「なんかあったらいつでも帰ってこい」と支えてくれたこと。絶対に心配してるはずやのに、笑顔で送り出してくれたこと。

 新聞記者を辞めたことで、私はペンを置いたなんて思ってない。もっと必死に、命を込めて、私は今ペンを握っている。日本の西の端っこにある長崎県新上五島町のために。自分のために。家族のために。

 写真は2015年2月に取材で訪れた岩手県釜石市。4年がたってもまだまだ復興の途上。どれでも少しずつ、人の営みが沿岸部に戻っている。工事中の明かりが、被災地の夜を照らす花に見えた。新聞記者として被災地を取材する最後の機会だと思っていたので、1秒でも長くいて、1人でも多くの人に話を聞いて、たくさん写真を撮った。

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