新聞記者からの逃亡②
東京本社放送芸能部への異動。
必死に登り続けていたハシゴを外されたようだった。放送芸能部で仕事をすることが嫌だった訳ではない。今の自分は社会部にどうしても来て欲しいと思われている人材ではないという事実を思い知らされただけだ。ただそれだけ。
「きっとすぐに社会部に行けるって」「本社に上がるだけでも大したもんだよ」。みんな適当なことばかり言わないでよ。こうなったら、原稿を書きまくって、自分の名前を会社の偉い人たちに売り込むしかない。そして、与えられた放送芸能のフィールドで、震災や原発事故についての記事を書くんだ。
今思うと、屈折したやる気。それだけでどこまでも進んでいけるほど、私は頑丈でも器用でもなかった。
本社に勤務するようになって大きく変わったのは、上司や会社との距離の近さだった。会社の偉い人たちは、「うちの新聞をよくするため」の指示を上司たちに日々飛ばし続ける。その上司たちからは当然、うちの新聞をよくするための記事を求められる。私は自分の名前を売り込むために、「うちらしい」新聞になるような記事を書き、紙面を埋めるためにたくさんの記事を書いた。どこがおもしろいのか分からないまま、無理やり記事にしたこともあった。新聞は日々作られ、消費される。今日が終わればまた明日。どんなに気持ちを込めて書いても、どんなに無理やり書いても、次の日には新しい新聞作りがやってきて、ほとんどの記事は忘れ去られる。みんなには忘れ去られるけど、自分が書いた記事への不満や疑問は、身体の中に澱のように溜まっていった。
半年も経たないうちに、何のために毎日くたくたになっているのか分からなくなった。
なんで新聞記者になりたかったんだっけ。
声なき声に耳を傾け、新聞を通して社会に問いかけたいと思っていたんだった。それがどうだ。記者になって7年目、私は会社や上司の声に耳を傾けて仕事をしていた。
「私、この仕事ずっと続けたくない」。
2014年が終わろうとしていたころ、結婚してまだ半年の夫に意を決して告げてみた。すると夫から、驚くべき言葉が返ってきた。
「俺も続ける気なんてさらさらないで」
写真は、島に上陸して初めての晩ご飯のほか弁を、家の前の堤防で食べたときの様子。今まで食べたほか弁の中で一番美味しかった。